「労働の嫌悪」

蔵原惟人は「芸術的方法についての感想」1931,9,10)で、プロレタリア作家における執拗な「労働の嫌悪」について書いている。

これに関連して指摘しておかなければならないのは、日本のプロレタリア作家たちがほとんど人間の労働を描いていないということだ。彼等は社会の生産場面を執拗に回避している。実際彼等の小説の中では労働者がいついかなる労働に従事しているのだか分からない場合がしばしばある。ことにそれは農民を描いた作品において甚だしい。(略)ここでは農民たちは、例外なしに朝から晩まで奔走し、「闘争し」、集会している。なるほど階級闘争の激化した時には、一時仕事を放棄することもあるだろう。だが我々は全然労働しない農民、特に貧農を想像できるだろうか。

  • この「労働の嫌悪」がどこから生まれたか? 「主題の積極性」がストや争議を描くことだと短絡化されたことがある。
  • むしろ、初期の労働者作家の方が、労働現場を描いている。ただし、資本主義的な工業生産よりも、鉱山や流れ職人などが多い。
  • 労働に対する関心は、大正時代の白樺派などに見られる。柳宗悦宮沢賢治の場合は、労働は脱主体化に導くものになる。しかしより一般的には、労働は自己完成、自己表現と結びつく。島木健作の「生活の探求」の主人公は、新しき村徳富蘆花などにまで退行していると知人に嘲笑されるが、これは正しい。島木は大正的な労働観にまでもどることから始めている。
  • 意外にも、新感覚派の方が労働に注意をはらっている。