中野重治「汽車の罐焚き」

この作品がナルプ解散前に書かれていたら、蔵原惟人もプロレタリア作家の「労働の嫌悪」を嘆かないでもすんだだろう。
しかし、この作品は生産現場をもっともヴィヴィッドに描いた傑作であるとともに、プロレタリア文学理論への批判にもなっている。

  • この作品は作家の前に現れた「鈴木くん」に関する話と、その鈴木くんが語った(それを私が再構成した)話の二つのレベルで構成されている。つまり、話中話の構造を持っている。
  • この鈴木くんについてという額縁の部分をとりのぞけば、これはもっとも理想的にプロレタリア文学の典型を実現した作品だといえる。作家は、鈴木から自分の話を書かないか、といわれた時、強い興奮と不安を感じる。そこには、敗退したプロ文運動、自分の転向への強い後悔と再起への思いがある。この話を書くことで、課題であった労働者との結びつき、労働現場を描くことができるという気持ちがある。
  • が、問題は、語り手の作家は鈴木が語る汽車機関手、機関助手の仕事も、機関車の構造もよくは知らないことだ。作家は鈴木からくわしく説明を受け、鉄道博物館で鈴木のあとをついて機関室に乗り込み、彼のふるまいを想像裡に模倣する。
  • この作家は、実は個々の労働の個別の現場を知らないという前提のため、鈴木の物語の部分が見事に書かれれば書かれるほど、それは、どこまでが実際であり、どこからが作家の(勝手な)想像なのか、という疑念が生まれる。すなわち、中野の堅実なリアリズムが見事であるからこそ、逆説的にそれが虚構であるということが意識される。言葉をかえれば、中野は聞き書きという虚構の領域をあらかじめ確定することで、思う存分その腕をふるっている。
  • そのため、この作品は「プロレタリア前衛の目をもって描く」という蔵原理論(中野の言葉でいえば「プロレタリアが開いた窓」)の実現でありつつ、それが抽象的な装置であることも示すものとなる。作家は無媒介にプロレタリアートという集合的主体を代表するのではなく、つつましやかに個別の労働者の言葉を翻訳する限定された機能なのだ。いわばグラムシの機能的・有機的知識人といってもいいかもしれない。
  • 模倣・再表象というテーマはほかにも見出せる。内容で重要な役割を果たす「模型」といわれる競技。これは現実の機関助手の労働を、非生産的に再現・上演するものだ。
  • 穿った見方をすれば、この「模型」はプロ文運動自体の隠喩であると見れなくもない。この「模型」競技によって、登場人物たちは二度までもひどい目にあわされる。一度は競技途中で倒れて死に至り、一度は労働=闘争現場から放追される。この「模型」の上演は、鉄道幹部の超越的な眼差しに供されるために行われる。ここには「書くこと」が誰に向けて行われるのか、という問いがあるように思われる。
  • 冒頭に挿話的に、井上くんという青年が「党」と連絡をつけようとするのを、主人公が断るという部分がはさみこまれている。これもまた意味深い。
  • あとひとつ。中に、「私は、人々が私を取りまいてくれるのを感じた。」からはじまる数節がある。これは中野の理想的な運動主体のイメージ、それもまだ党と運動が実在していた時期とは微妙に異なる共同体のイメージを表出したものとして、興味深い。
  • 転向以降の中野の作品は、しばしば「書くこと」を巡るメタフィクションの傾向を持つ。「村の家」が「それでも書いていこうと思います」の一句へ引きしぼられているように、「鈴木、都山、八十島」では言葉によるコミュニケーションの齟齬とフィクションのレベルの差異が問題となる。おおむね、それらは自分が書き続ける根拠をさぐる「小説の書けない小説家」の苦闘という側面をみせる。