問題点

  1. ある若者が、社会変革の必要性、マルキシズムへの牽引を感じたとしても、なぜ彼は芸術面では通常作家、政治面ではマルキストというふうにふるまうことはできなかったのか。
  • いわゆる同伴者作家に限らなくても、社会主義への必然的な移行を認めつつ、自分はマルキスト足りえないといった物言いはかなり多かったはずだ。
  • 福本主義を契機に(?)マルキシズムが、単なる経済思想・政治思想ではなく、全人格的なコミットを要求するようなものとして現れた、ということがある。そこでは社会的実践から切り離された私的な領域(想念、感覚)といったものは許されなかった。マルキシズムを信じつつ、個人的な作品を書くということは、欺瞞としか受け取られなかった。
  • 明治半ば以降、文学が人格や主体形成に関わるものとして受け取られてきたことが関連している。
  1. 「党」から自律した社会主義者の可能性は? 労農派、尾崎秀実くらいか。35年以前、そうした存在は「社会民主主義」として徹底的に攻撃される。
  2. 近代化の過程で、芸術、文学といったジャンルの自明性が確立するとともに、じつはその機能が見失われる、大正末期はそのような時代だったかもしれない。プロ文はその機能の変更だったのかもしれない。個人のものではない社会の芸術。社会的統合、モデルを上演する芸術。しかし、それ以降、ファシズム下において、芸術の社会性は自明とみなされ、政治と芸術、社会と個人という二分方は成り立たなくなる。これは日本ばかりではない。