『世界共和国へ』

柄谷行人『世界共和国へ ──資本=ネーション=国家を超えて』
おもしろい本だと思うのだが、特に刺激された部分だけメモ。
帝国と封建制

  • 柄谷は古代帝国、都市国家封建制といった類型を発展段階としてではなく、帝国=文明からの位置関係としてみる。「ウィットフォーゲルの見方で注目すべきことは、古典古代的・封建的といわれる社会構成体について、水力社会を中核とした場合に、その周辺の外、すなわち、「亜周辺」(submargin)に生じた現象形態として見たことです。亜周辺とは、帝国−文明の直接的な影響下におかれる周辺とちがって、帝国−文明を選択的に受け入れることができるような地域です」。つまり、それらは個別の類型ではなく、構造的な相互関係にある。
  • 帝国=文明を可能にするのは、官僚制、常備軍、文字や通信のネットワークだとされる。これを言語計算の技術と呼んでいいだろう。在と不在、真と偽に基づく論理学、象徴秩序はここに誕生するだろう。それは呪術宗教から普遍宗教の発現、此岸と彼岸の分離にも対応する。今手元にないのでできないが、いつか「ミル・プラトー」の帝国論、文字論とも比較してみたい。
  • 帝国的文明の選択的受容は、日本に限らず、亜周辺一般の特徴である。日本では八世紀に天皇を仰ぐ律令制国家が成立するが、東国の戦士=農民共同体を基盤とする封建体制によって浸食される。「しかしそのような武家の権力は、京都を中心としたアジア的国家=文明の遺産を一掃することはなかった。というより、できなかったというべきでしょう。人格的な忠誠関係にもとづく封建制にあっては、集権的な体制を作ることができないからです。たとえば、日本の歴史に関して、古代の律令国家の法や機構が形骸化したにもかかわらず、一度も公式的には否定されたことがなかったこと、そして、明治維新において、それが中央集権化のために活用されたということが、注目されています」。
  • 天皇を神話的な呪術王としてだけでなく、律令国家を象徴する「天子」としてみること。
  • 帝国の中心では、言語(象徴)運用能力が、直接統治の能力に結びつく。中国で科挙が果していた役割を考えよ。科挙と官僚制は等価であり、地方の秀才を科挙へ向かって整列させること、通過した役人を地方へ派遣することで広大な領土が書物のように整序される。また、故宮などに行くと気づくのは、文字(イメージ)の徹底した統御ではないだろうか。「龍」というイコンひとつがどれほど厳密に管理されたか。
  • しかしいわゆる「詩」はこの科挙(権力)から疎外された秀才の側に成立する。日本の場合はさらに極端で、天皇=和歌的なものが、文明・統合を意味すると同時に政治権力からの疎外態を成している。天皇は詩歌の統治者である。すなわち、天皇は政治権力の喪失の象徴でありつつ、文化の総覧者となる。だから、日本文学が愛着するのは、流された王、力を失った権力者であって、今権力の絶頂にある王ではない(西行源氏物語平家物語)。貴種流離というのはそういうことだろう。
  • 同様に、詩歌は言葉=論理、意味=指令・秩序でありながら、むしろその意味を超える部分が見出され、重要視される。いわゆる余情、もののあわれの美学。
  • このように、天皇は一面で文明=統合の象徴、つまり合理的な言語計算の主体でありつつ、他面ではそうしたものを超越する(と主張する)美的反省の主体になる。よくいわれる明治維新の二重性、ブルジョア革命と神権的古代国家への回帰という二重性は、この天皇の両義性に対応している。当村の「夜明け前」が描いているように、封建制を打倒しようとするとき、天皇という過去の文明=律令制の象徴が持ち出されたのだが、それは宗教的情熱によって支えられた。しかも実際運動に身を投じたのは、地方の国学者のような文学的知識人だったのだ。
  • だが現実には明治国家は近代主義を採用せざるを得ない。明治期の天皇制は絶対王制と立憲君主制の曖昧な結合だが、そこに欠けていたのは、美的な文化王としての性格である。昭和期の国体イデオロギーへの異様な感情備給は、その反動であったと考えられる。むろん日本浪漫派も、美的な存在としてのみ、天皇と言語をとらえている。一方マルクス主義者は、天皇の美的な性格を見落としていたため、足をすくわれた(?)

エステティックとネーション

  • 柄谷は、感情(感覚)のレベルにネーションの力を見出す。彼によると、イギリス(スコットランド)で資本主義が拡大するのと同時に、想像的にそれを補償するものとして、sentiment,sympathyが哲学的な問題となる。またネーション(ステート)の成立期、感性の学としての美学が誕生した。「十八世紀になって、感情によって知的認識や道徳的判断が可能であるのみならず、ある意味で悟性あるいは理性を超えた能力があるということを主張する議論が出てきました。それはエステティック(aesthetics)と呼ばれます。本来それは感性論という意味なのです」。
  • 日本でも国学になると(宣長が生きていたのは十八世紀)、和歌がネーション(唐心を排した本来的な人間の世界)を想起させる装置として尊重される。