中野と蔵原

中野が「全体的主体としてのプロレタリアートこそが「主体」なのであって、党はその意志の「表現」である」(栗原)という考えをとっていたとすれば*1、蔵原は党のみが階級的主観を独占できるという前衛主義の立場に立っていた。この蔵原の考えは、(蔵原が下獄したあと一層)個別の作品を党のスローガンを普及するためのメディアとする方向に拡張される。そこで「大衆化」というのは、ほとんど作品を広告にかえることであって、文学理論はほとんどマーケティングのための方法論になる*2この蔵原理論(コース)は、モスクワの指導による「第三期論」「社会ファシズム論」「多数者獲得戦術」と結びついていた。 *3結局問題は、「政治の優位」「主題の積極性」のようなものが、外的な規定として、制作主体との葛藤においてしか──あるいは「党生活者」のように「党」へのフェティシズム的一体化(私小説?)として──しか経験されなかったところにあるのだろうか。いわば、主体を内的にあけわたすためのメソッドが不在だった。ひとつの回答としての日本浪漫派(亀井)。シュルレアリスムの問題。

*1:中野は、全体としての闘争と、個別の芸術などの領野における闘争が、部分と全体として有機的に結合し、いずれかの従属関係は成立しないと考えていた。中野の組織観については「芸術運動の組織(1)」1927、栗原p52

*2:たとえば日本プロレタリア作家同盟創立大会での林房雄による「文学大衆化の問題」。ここで林は、階級,文化水準、年齢などの受容層、作品の主題によって文学を「分化」させることを求めている。

*3:では、当時のプロレタリア作品が、純粋な広告、プロバガンだとして開花することをさまたげたのは何だったのか。数年後に現れる「FRONT」、または翼賛文学などを考えよ。バウハウスとマイヤー。