文芸復興

昭和十年前後、マルクス主義の退潮によって谷崎、荷風といった作家たちが再び活躍をはじめ、「文學界」「文芸」といった雑誌が創刊されたことなどをさして、いわゆる文芸復興というわけだが、もともとこの言い方は、プロレタリア文学のなかから生まれてきたものだった*1。実際、この時期の作品を読んでいると、それまでのプロレタリア文学とは明らかに異質な感触を持った作品が書かれていることが分かる。作家たちに課せられていた方法上の枷から解き放たれて、平林彪吾の「鶏飼いのコミュニスト」のような戯画的なリアリズムや、高見順の「嗚呼いやなことだ」のメタフィクション的な試みまで、ある種の方法論的な爆発がおきている(もちろん、武田麟太郎の下層描写もこれに加えていいだろう)。それらが成功しているとはいえないにせよ、プロレタリア文学のなかに、小規模な文芸復興があったといってもいいだろう。けれど、そこで書かれているのは、敗退する運動への不安,疑念、暴露といった陰惨で後ろ向きの感情だ(この時期は「シェストフ的不安」が喧伝された時期でもあった)。この心理状況と方法への過剰でアイロニカルな意識の先に、日本浪漫派が登場する、と考えることは見当違いでもないだろう。直接の影響関係ということではないが、高見順はすでに太宰治を予告している。その太宰治も、まさにこの時期同人誌を通してデビューする。今日、森敦の回想『わが青春わが放浪』を読んでいて印象深かったのは、この時期の青年たちを襲った文学熱とでもいうべきものだ。有名作家の周囲に集まった知識青年たちが相次いで雑誌をたちあげ、そこから文壇に駆け上ることを夢想し、離合集散しながら酩酊したように文学にのめりこんでいく。まさに文運興隆というべきかもしれないし、森敦はシュトルム・ウンド・ドランクなどと、いかにも豪放かつ繊細な青春群像として描いているのだが、僕はなにかそこに不健康なものを感じる。森敦自身が、その時代の雰囲気から、奈良の寺への隠棲という形で逃げ出している。

*1:「知られているとおり、この文芸復興という声は、最初、林房雄などを中心として広い意味でのプロレタリア文学の領域に属する一部の作家たちの間から起った呼び声であった。それらの人たちの云い分を平明に翻訳してみると、これまで誤った指導によって文学的創造活動は窒息させられていた、さあ、今こそ、作家よ、何者をもおそれる必要はない、諸君の好きなように書け、書いて不運な目にあっていた文芸を復興せしめよ、という意味に叫ばれたと考えられる」(宮本百合子「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2865_8461.html