「日本浪漫派批判序説」より

単に人民文庫と日本浪漫派が転向というひとつ枝から分かれてきたものと見るのではなく、プロレタリア文学運動自体が、大正末期昭和初頭のデカダンスに起源を持つ、という視点をもっとも強く主張しているのは、橋川文三であるように思われる。とりわけ、文芸文庫版P36ー38。

民芸と時代性

一般に柳は大正的な思想家と目されがち(実際そうなのだが)にしても、民芸というコンセプトが明確化され展開されていくのは昭和期である。「下手ものの美」が1926年、「工芸の道」連載が27年から。
伊藤徹『柳宗悦 手としての人間』p178

東大安田講堂の設計者・岸田日出刀が、建築上のモダニズムの勃興を告げる著書『過去の構成』を世に出すのは、『工芸の道』出版の翌年一九二九年のことだったし、タウトが来日した一九三三年といえば、柳が各地で民芸展を開くなど、翌年の協会設立に向けて民芸運動を展開していた、まさにその頃にあたる。そういえばアール・ヌーヴォー風の陶磁器によって、明治から大正にかけての工芸界の象徴的存在となっていた板谷波山が、装飾性を控えめにして「モダニズム」に移っていくのも、やはりこの時代だ。要するに民芸運動の時代は、個の解体の時代であると同時に、機能重視の時代、美が必要のなかに求められる時代だったのであり、柳のいう「用即美」は、まさに時代精神の表現であったわけである。

柳と保田、土門

  • 一九三九年暮れに、柳宗悦は沖縄に旅行する際に、一門のほか、保田與重郎土門拳を引き連れている。民藝運動と土門のあいだにどういうつながりがあったのかはよくわからない。数年前の土門は人民文庫にも出入りしていた。
  • 案の定というべきか、保田は「現代日本文化と民藝」という評論で、自分が高等学校時代「工芸の道」を読んで感激したのが、はじめて文章のようなものを書いた始めだったと告白しているらしい。が、その後保田は柳とは微妙に距離をとる。戦後の『日本の美術史』では、「柳宗悦氏の民芸運動は、大正昭和の芸文上、柳田國男氏の民俗学と並んで、最も大切な思想上の出来事だった」にもかかわらず「これほど早く堕落した芸術上の運動も数少ない」と書いている。柳自身は保田にさしたる関心を示していない様子。伊藤徹『柳宗悦 手としての人間』第四章に大まかなアウトライン。

問題点

  1. ある若者が、社会変革の必要性、マルキシズムへの牽引を感じたとしても、なぜ彼は芸術面では通常作家、政治面ではマルキストというふうにふるまうことはできなかったのか。
  • いわゆる同伴者作家に限らなくても、社会主義への必然的な移行を認めつつ、自分はマルキスト足りえないといった物言いはかなり多かったはずだ。
  • 福本主義を契機に(?)マルキシズムが、単なる経済思想・政治思想ではなく、全人格的なコミットを要求するようなものとして現れた、ということがある。そこでは社会的実践から切り離された私的な領域(想念、感覚)といったものは許されなかった。マルキシズムを信じつつ、個人的な作品を書くということは、欺瞞としか受け取られなかった。
  • 明治半ば以降、文学が人格や主体形成に関わるものとして受け取られてきたことが関連している。
  1. 「党」から自律した社会主義者の可能性は? 労農派、尾崎秀実くらいか。35年以前、そうした存在は「社会民主主義」として徹底的に攻撃される。
  2. 近代化の過程で、芸術、文学といったジャンルの自明性が確立するとともに、じつはその機能が見失われる、大正末期はそのような時代だったかもしれない。プロ文はその機能の変更だったのかもしれない。個人のものではない社会の芸術。社会的統合、モデルを上演する芸術。しかし、それ以降、ファシズム下において、芸術の社会性は自明とみなされ、政治と芸術、社会と個人という二分方は成り立たなくなる。これは日本ばかりではない。

中野重治「汽車の罐焚き」

この作品がナルプ解散前に書かれていたら、蔵原惟人もプロレタリア作家の「労働の嫌悪」を嘆かないでもすんだだろう。
しかし、この作品は生産現場をもっともヴィヴィッドに描いた傑作であるとともに、プロレタリア文学理論への批判にもなっている。

  • この作品は作家の前に現れた「鈴木くん」に関する話と、その鈴木くんが語った(それを私が再構成した)話の二つのレベルで構成されている。つまり、話中話の構造を持っている。
  • この鈴木くんについてという額縁の部分をとりのぞけば、これはもっとも理想的にプロレタリア文学の典型を実現した作品だといえる。作家は、鈴木から自分の話を書かないか、といわれた時、強い興奮と不安を感じる。そこには、敗退したプロ文運動、自分の転向への強い後悔と再起への思いがある。この話を書くことで、課題であった労働者との結びつき、労働現場を描くことができるという気持ちがある。
  • が、問題は、語り手の作家は鈴木が語る汽車機関手、機関助手の仕事も、機関車の構造もよくは知らないことだ。作家は鈴木からくわしく説明を受け、鉄道博物館で鈴木のあとをついて機関室に乗り込み、彼のふるまいを想像裡に模倣する。
  • この作家は、実は個々の労働の個別の現場を知らないという前提のため、鈴木の物語の部分が見事に書かれれば書かれるほど、それは、どこまでが実際であり、どこからが作家の(勝手な)想像なのか、という疑念が生まれる。すなわち、中野の堅実なリアリズムが見事であるからこそ、逆説的にそれが虚構であるということが意識される。言葉をかえれば、中野は聞き書きという虚構の領域をあらかじめ確定することで、思う存分その腕をふるっている。
  • そのため、この作品は「プロレタリア前衛の目をもって描く」という蔵原理論(中野の言葉でいえば「プロレタリアが開いた窓」)の実現でありつつ、それが抽象的な装置であることも示すものとなる。作家は無媒介にプロレタリアートという集合的主体を代表するのではなく、つつましやかに個別の労働者の言葉を翻訳する限定された機能なのだ。いわばグラムシの機能的・有機的知識人といってもいいかもしれない。
  • 模倣・再表象というテーマはほかにも見出せる。内容で重要な役割を果たす「模型」といわれる競技。これは現実の機関助手の労働を、非生産的に再現・上演するものだ。
  • 穿った見方をすれば、この「模型」はプロ文運動自体の隠喩であると見れなくもない。この「模型」競技によって、登場人物たちは二度までもひどい目にあわされる。一度は競技途中で倒れて死に至り、一度は労働=闘争現場から放追される。この「模型」の上演は、鉄道幹部の超越的な眼差しに供されるために行われる。ここには「書くこと」が誰に向けて行われるのか、という問いがあるように思われる。
  • 冒頭に挿話的に、井上くんという青年が「党」と連絡をつけようとするのを、主人公が断るという部分がはさみこまれている。これもまた意味深い。
  • あとひとつ。中に、「私は、人々が私を取りまいてくれるのを感じた。」からはじまる数節がある。これは中野の理想的な運動主体のイメージ、それもまだ党と運動が実在していた時期とは微妙に異なる共同体のイメージを表出したものとして、興味深い。
  • 転向以降の中野の作品は、しばしば「書くこと」を巡るメタフィクションの傾向を持つ。「村の家」が「それでも書いていこうと思います」の一句へ引きしぼられているように、「鈴木、都山、八十島」では言葉によるコミュニケーションの齟齬とフィクションのレベルの差異が問題となる。おおむね、それらは自分が書き続ける根拠をさぐる「小説の書けない小説家」の苦闘という側面をみせる。

「労働の嫌悪」

蔵原惟人は「芸術的方法についての感想」1931,9,10)で、プロレタリア作家における執拗な「労働の嫌悪」について書いている。

これに関連して指摘しておかなければならないのは、日本のプロレタリア作家たちがほとんど人間の労働を描いていないということだ。彼等は社会の生産場面を執拗に回避している。実際彼等の小説の中では労働者がいついかなる労働に従事しているのだか分からない場合がしばしばある。ことにそれは農民を描いた作品において甚だしい。(略)ここでは農民たちは、例外なしに朝から晩まで奔走し、「闘争し」、集会している。なるほど階級闘争の激化した時には、一時仕事を放棄することもあるだろう。だが我々は全然労働しない農民、特に貧農を想像できるだろうか。

  • この「労働の嫌悪」がどこから生まれたか? 「主題の積極性」がストや争議を描くことだと短絡化されたことがある。
  • むしろ、初期の労働者作家の方が、労働現場を描いている。ただし、資本主義的な工業生産よりも、鉱山や流れ職人などが多い。
  • 労働に対する関心は、大正時代の白樺派などに見られる。柳宗悦宮沢賢治の場合は、労働は脱主体化に導くものになる。しかしより一般的には、労働は自己完成、自己表現と結びつく。島木健作の「生活の探求」の主人公は、新しき村徳富蘆花などにまで退行していると知人に嘲笑されるが、これは正しい。島木は大正的な労働観にまでもどることから始めている。
  • 意外にも、新感覚派の方が労働に注意をはらっている。

新人会

  • 新人会世代で知的エリートの社会的自意識が変化しているということ
  • だいたい、文学者や知識人というのが、ナンバースクール→帝大というほとんど同窓会的な集団になったのはいつからだろう。大正文士も帝大出身者が多いかもしれないが、明らかに立ち位置が違うという気がする。高等遊民でも世間から離脱した特殊な一群でもなく、大衆を代表する(ゆえに自分の小ブル性に悩む)という意識が形成されたのは。
  • 当時の同人誌熱というものがどこか異様に見えるとやはり2月28日に書いたが、旧制高校-帝大ラインという特殊閉鎖的社会で、若者が文学を志向する何らかの文化構造があったということ。マルクス主義運動も、そうした構造の内部にあったということ。