あいかわらず

ぼーっとしている。地元の田んぼの真ん中にある蕎麦屋へ。今回の帰国の目的の七割はこの蕎麦屋にあったといっても過言ではない(爆)…が、定休日。やけに苗の緑が目にしみるぜ。また来るからな、と呟いて帰宅。
夜になって明日、ある人物に会いにいくことが決まる。叱られるのか、ほめられるのか(それはないか)わからないが、僕的には結構重要な会見かと思っているのでちょっぴり緊張する。めちゃくちゃ切れる人だろうと思っているのだが、電話での応対はわりと朴訥な感じだった。やっぱデキる人は演出までちがうぜ、と勝手に納得。
それにしても今日は一円も使わなかった。消費と生産から遠く離れて、ただウロウロしてるのみ。ああ、「下流」って幸せ。

『不安型ナショナリズムの時代』

高原基彰『不安型ナショナリズムの時代 日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由』を読む。
大枠において、著者の議論に同意することができると思う。著者の考えは、きわめて単純なふたつの認識を組み合わせたものだ。
1、現在ネットなどで見られる嫌韓、嫌中、いわゆる「右傾化」は、実のところ国家への共感、同一化の高まりを意味しない。
2、産業構造の変化による社会の流動化が、日本国内で既得権益層(年長世代)と階級下降層(若年世代)の対立(格差)を生み出している。
そして、この若年層の不安が、保守論壇──これはもともと年長世代を読者対象としたものなのだが──の言説を「趣味的に」いじることによって生み出されるのが嫌韓・嫌中ゲームなのだということになる。この議論の弱い点は、若年層の不満が向かう先が、なぜ国内問題でも反米でもなく、中国と韓国なのか、という部分がうまく説明できないことだろう。だが2については今や誰も否定できないだろうし、1もある留保をおいた上で、実状に即していると思う。ある留保というのは、個々人が国家主義的になっているわけではないにしても、その世論は国内政治に影響を及ぼし、ひいては国際関係にも響いていくだろうと考えるからだ。
僕自身つねづね、現在の右傾化というのは古典的ナショナリズムとはいえないのではないかと思っていた。まず我が身をふりかえっても、現在の二十代、三〇代が国家にシンパシーを感じる社会的条件は見当たらない。彼らは中間層の解体という潮流に直撃されている世代であり、また心情的には、固定した社会集団への従属を忌避する傾向が強い。戦後の六十年間は、国家に実存的に投機するという心情をほぼ完全に殲滅したと思っている。
第二に、ナショナリズムというのが国民国家内部での平等、豊かさを求める運動であるなら、その矛先はネオリべ政策を強行する政府に向けられるべきだろう。歴史的にも、ナショナリズムというのはある種の反体制運動として国民的結集を志向するものだ。しかし現在のネット右翼言説に、国民統合を目指す運動論的色彩は感じられない。これは、ネット上の右派的言辞が、ほとんど議論の体をなしてないこと、萌芽的にであれ、理論的あるいは詩的に日本国家の正統性や優越性を確証しようとする意志を欠いていることからもわかるだろう。つまりもともと相手を説得して自派陣営にとりこもうという意志などもっていないのだ。これは、戦前の右翼とは異なる点だと思う。実際ネットで好まれるのは罵倒であって、日本を賛美するための理論構築などは、むしろ場違いな作法として嘲笑されるのではないだろうか。
第三に、高原も欧米の移民排斥などが参照されるべきだと示唆しているが、ネット言説が単純な排外主義に見えることだ。そこにあるのは、日本を同質的な空間として閉鎖してしまいたいという欲望、外からごちゃごちゃいうな、ほっといてくれ、という叫びであるように思える。戦前のナショナリズム帝国主義と一体化しており、少なくとも形式的には異なる民族、文化を包摂し、同質化しようとしていた。現在あるのは、中国、韓国の伸張に対する恐怖感だけだろう。実は日本の現在の「右傾化」の特徴は、逆説的にも「外」に対する意識の希薄さではないかと思う。あるいは外への恐怖感だけは強いのかもしれないが、その言説は明らかに国内だけに向けられている。これは、戦後の大衆ナショナリズムから引き継いだ遺産かもしれない。しかし国民国家勃興期のナショナリズムというのは、反対に外国に直面し、その危機感をバネにするもの、例えばしばしばエリートである留学生などに指導されるものだ。明治維新や中国革命、植民地独立運動などを考えれば分るが、それは外国の技術、システムを積極的に移入し、かえって国際化を志向する。僕の学生の中国人院生は、ネット上で独立問題に関して台湾人と喧嘩しているといっていた。これも罵倒の応酬かもしれないが、少なくとも国外(?)を相手にしている。言葉の問題があるとはいえ、日本の嫌韓厨が直接韓国人と議論をしている様子は思い浮かべられない。
この高原の議論で参考になったのは、韓国、中国のそれぞれの「反日」の社会的背景を手際よく説明してくれたことだった。一見反日と見えるものは、むしろ国内の変動に由来する複数の潮流と関わりあっている。中国に関していえば、彼は中国に生まれた新たな中間層が、日本の高度成長期に見られた安定した階層ではなく、ポスト産業社会の特徴である過剰な流動化にさらされていると指摘している。中国では、古典的な貧富格差と、中間層内部での過剰流動性が同時に存在しているわけだ。これは僕の貧しい見聞からいっても首肯できる。僕が知っているのは、日本の専門学校生にあたるような中流下層の若者たちだが、彼らは「終身雇用」なんてまったく念頭にないに違いない。中国での中間層の創出は、日本のようにみんなが横並びで豊かになっていく、などというものではないのはその通りで、BMWと荷車を引いたボロボロのバイクが一緒に走っているのが中国だ。
ただ、結論部には幾つか疑問が残る。
高原は、結局本当に重要なのは歴史でも記憶でもなく、個人が痛切に感じているはずの経済的不安なのだというのだが、果たしてそのようにナショナリズムを経済問題に解消することができるのだろうか?  確かに、人々が何十年も前の歴史問題に熱中している(ようにみえる)ことへの違和感や、そこに自己欺瞞があるのではないかと感じることには共感できる。だが、彼のいう「経済的リアリズム」に皆が目覚めれば、国家の問題もなくなるのだろうか。それは、彼自身がとりあげている川勝平太らのアジアのライフスタイル一元論同様の、平板な議論であるように思える。川勝のいっていることは、個人の趣味と利害しか差異のないインターナショナルな世界が始まるという、高原の批判するポストモダン言説と同型なのだが。
ここでもかなり厳しくやっつけられているけど、歴史問題の噴出自体が、構造的変動による歴史的出来事なのだ。つまり必然性がある。彼は右派、左派の言説から距離をおこうとするあまり、いささか事態を単純化しすぎているのではないか。「国益というのは私益の集積としてある」ことを自覚し、そのために「国家を使いこなす」という提言は、もう無効であることが証明された、国家なんてしょせん想像の共同体なんだからさ、という言い方とかわりがないように思うのだ。

「ゲド戦記」

ところで、本屋でル・グウィンの『ゲド戦記』がソフトカバーになっているのを見て嬉しかった。モニターでは映画の予告編を流していたけど、ハイジみたいな昔の宮崎駿風の絵柄。見たいかどうかは微妙な感じ。でも、スタジオ・ジブリが『ゲド戦記』をとりあげるのは妙に納得がいく。
ゲド戦記』にはまったのは四年くらい前で、十分大人(おじさん)になってからだ。むしろ子供の頃は馴染めないものを感じていた。はまった理由は、『ゲド戦記』にある「本来性の感覚」のようなものを感じたからだと思う。きりがなくなるので詳しくは書かないけど、これは十九世紀の大小説が持っていたもの、おそらくはマンの『魔の山』やコンラッドの『ノストロモ』などを境に、現代小説では不可能になったものだ。これはルカーチのいう「叙事詩」、ブロッホのいう「希望の原理」に関わる。しかしこの「希望の原理」は二十世紀ではむしろ大衆文化の中に息づくことになる。『ゲド戦記』と宮崎駿の作品の共通点は、どちらもほとんどの小説や映画と言った凡百のハイ・アートを超える質を持ちながら、やはり大衆文化としかいいようがないことだ。これは単なるポピュラリティの問題ではなく、「作品」がどのように大衆の欲望と関わるのかということに関係している。

[雑]弛緩状態
床屋、本屋、ミスドと地元をだらだらと回遊して過ごす。論文を書きに帰って来たというのに、日本にいると気が緩んでしまっていけない。ひとつには、情報量が多いということもある。言葉の問題もあって、中国で過ごしているとさまざまな違和感や驚きを感じるが、それらは結局ほとんど言語化も意識化もされずにすんでしまう。日本だと逆に、広告やら何やらが全部意味を持った情報として飛びこんでしまう。それに同じヤフーニュースを見ていても、秋田の児童殺害など、中国じゃ何の興味もなかったのに、日本で見ると、妙に生々しく目に粘り着く。ニュースのバリューなんていい加減なものですよ。いる場所一つで全然違って見えちゃうんだから。だって、ほんというとテポドンだってどうでもよかったもんね。第一絶対本土に落ちるわけないじゃないですか。そんなことしたらトマホーク何百発撃ち込まれて、サダムの二の舞になることくらい、金ちゃんだってわかってますって。だから隅田川の花火みたいなもんだと思ってのほほんとしてればいいのよ。なんていえちゃうのはやっぱり国外にいたから? ああ、おれってほんとに非国民!
そういうわけで、論文と関係ない本を何冊か買い込む。田舎の本屋だからこの程度で済んだものの、都心の大書店にいくとブレーキがきかなくなるに違いない。
高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』
柄谷行人『世界共和国へ』
堀川弘通『評伝黒澤明
三浦展下流社会
山内志朗ライプニッツ
あと、佐藤優の『自滅する帝国』というのもおもしろうそうだったな。どうするか思案中。

帰国

本日、帰国しました。八月いっぱいいる予定です。
前回、二月にはじめて帰って来たときは、広州と関東の空気の違い、とくに樹々の葉一枚一枚までがくっきりと浮き立ってくるようにみえることに圧倒されたのだけど、今日はそのようなことはなかった。おそらく夏で日本も湿気が高いせいかと思う。でも、やはり肌に触れてくる空気のやさしさがちがう。空気が粘つかず、汗もふきでない。こうして戻ってくると、自分が周囲の空間に一分の隙もなく、ぴったりと落ち着いているのを感じる。逆にいうと、それだけ外国にいるときはどこか身構え警戒しているのだろう(周囲からはのほほんとしているように見えるだろうし、自分でもそのつもりなのだけど)。とはいえ、二三日もすれば慣れてしまい、退屈しだすのも経験済み。

「芸術作品の根源」より

ハイデガーを読んでいて、次のようなフレーズにぶつかる。もちろんハイデガー的な形而上学的な深み(いかにもロマン派的な思わせぶりともいえる)はないものの、柳の述べていたことと、ハイデガーの道具論はほとんど重なるように思う。

この道具(農婦の労働靴)は大地[Erde]に帰属し、農婦の世界[Welt]の内で守られる。このような守られた帰属からこの道具そのものが生じ、それ自体の内にやすらう[Insichruhen]ようになるのである。/しかし、ひょっとするとこれら一切のことを、われわれはただ絵のなかの靴という道具からだけ見てとっているのかもしれない。それに対して農婦は単純に靴を履く。このように単純に履くことが、同様に単純であったらよいのだが。農婦が遅い夕べにはなはだしく、しかし健全に疲れて靴を脱ぎ、そしていまだ暗い夜明けにもうまたそれに手をのばす、あるいは祭りの日にそのかたわらを通り過ぎる、そのたびごとに、農婦は観察や考察なしにあの既述のこといっさいを知る。確かに、道具の道具存在はその有用性にある。しかし、有用性そのものは道具の本質的な存在の充実の内にやすらっている(以下略)

『芸術作品の根源』p38
つまり、ハイデガーは道具の道具性は、生活様式のなかに溶け込み、それと一致する(意識されない)ところにあるという。「世界と大地」は、道具によって意識化されない形で、「そこにある」(認識される=生きられる)。問題は、ハイデガーの場合、こうした生活(世界と大地)自体が美的なものとへと格上げされているところにある。
この直後彼はこう言う。すなわち、道具の「信頼性」(道具が対象化されることなく、生活の行為連関を接続し、世界を開示すること)が磨り減り、道具は「荒廃し」「単なる道具へ沈む」。

いまやわずかにむきだしの有用性だけが目立っているにすぎないのである。そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は質量に形相を刻印する単なる製造にある[これは工場のイメージだろう]という見掛けを呼び覚ます。

  1. これをあえてハイデガーのモダン(デザイン)批判といってしまおう。どちらも「用の美」に基づいているにも関わらず、近代工業製品は、道具自体の有用性とその「美しさ」を前景化してしまう。さて、しかしハイデガーは今述べたこと(道具の道具性の見出し)が、現実の靴ではなく、ゴッホの絵画によってもたらされたのだとする。「ゴッホの絵画が語ったのである」。「むしろ、道具の道具存在は、作品によってはじめて、そして作品においてだけ、ことさらに輝き現れてくるのである」。

柳の場合もまさに、「作品」が作品自体として現れてくるのではなく、道具性を通してそれを使う人間の生活連関が、そして美的な世界が開示されると語ったのだった。ただし、道具と芸術を分離するハイデガーと違って、柳の場合さらにその作品自体が道具であるという仕掛けが施されている。そのため、道具が道具を、つまり世界が世界を、非自己同一的なものとして展開するという構造になっている。しかし、これは当然生産ー使用のオートノミー、あるいはオートポイエーシスの肯定にしか行きつかず、結局柳の理論は、資本の社会形成作用の批判のようでいて、その幻想的な昇華にしかなっていない。

  1. ハイデガーによれば、芸術の役割は「世界と大地」を開くことにある。非模写的な芸術としての神殿をとりあげて、彼はこう書いている。

神殿作品は、誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と頽廃─が、人間本質にとってその命運[Geschick]という形態を獲得するあの諸軌道と諸連関との統一をはじめて接合[Fugen]し、同時にその統一それ自体のまわりに収集する[sammeln]。これらの開いた諸連関を支配する広がりこそが、この歴史的な民族の世界である。この世界から、そしてこの世界の内で、この民族ははじめて自分自身へと立ち返り、彼らの使命を完遂するに至るのである。
(この後の数行がまさに先生絶好調という感じだが略)
出来しそして立ち現れることそれ自体を、しかも全体としてのそれを、ギリシア人たちは早初期にピュシスと名づけた。
p53

「諸軌道と諸連関との統一を」芸術作品が接合し、「諸連関を支配する広がりこそが」歴史的な「民族の世界」となる。その現れの運動が「ピュシス自然」と呼ばれる。これはやはり柳、あるいは棟方志功などと近いような気がする。「神殿作品は、そこに立ちながら、一つの世界を開示し、そしてその世界を大地の上へと立て返す」(p55)。
ハイデガーは、この存在の開示(不伏蔵性)を真理と呼び、「作品においては真理が活動している」と結論するのだが、この世界と大地が、一種本来性のユートピアであることは明らかだ。「世界はいつも非対象的なものであるが、誕生と死、祝福と神罰の軌道が、われわれを存在の内へと連れ去られるのをそのままにしておくかぎり、われわれはこの世界の支配下にある」(p58)。ハイデガーでは、作品は、存在が開示される特権的な場所──「美は真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方」──になるわけだが、柳の場合は、作品がたえず反復=産出されていくこと自体が、存在の現れと同一視されるとでもいうか。(そのため、ハイデガーギリシャ神殿やヘルダーリンのような特権的な作品を持っているのに対し、柳は作品・作家の固有性を認めない)。

  • ハイデガーの本来的な世界は、現実の資本制社会への反動的な抗議ではあるだろう。が、大衆文化もまた「希望の原理」(ブロッホ)に依拠しているのだとしたら、その心性はむしろ現実社会のある種の裏面として(ベンヤミンが捉えようとしたように)広がっているといえる。
  • ハイデガーと柳の分岐が明らかになるのは、第三部「真理と芸術」だ。

彼はここで、芸術家がつくる、ことよりもむしろ、生み出すことを強調しつつ(例えばテクネーの意味は、技術というより、潜在的なものを現勢化することだとされる)、しかし、手仕事と芸術を画然とわける。

作品創作は決して手仕事的な働きではない。しかし、作品創作はつねに真理を形態の内に確立するという仕方で大地を用いることであり続ける。[この文脈では「大地」は素材に近い。]これに対して、道具を製造することは直接的には真理の生起の実現では断じてない。道具が仕上がっているということは、素材が形作られていることであり、しかも使用のための準備として形作られていることである。道具が仕上がっているということは、道具がそれ自体を超え出て、有用性の内に埋没することへと解放されることを意味するのである。(p98)

  • 有用性に埋没してしまう道具になかったもの、それは、「作品を生み出すことには「作品が存在するという事実」を差し出すことが含まれている」ということである。作品は「そのようなものとして存在する、というそのことが非日常的なこととなっている」。つまりこれはいわゆる異化作用だが、これにより作品は「世界と大地とに対する日常的な諸連関を変更」する。こうした文を見ていると、ハイデガーの芸術論が一次大戦以降の前衛芸術とも同期しているのだという感じになってくる。例えば、ダダの作品などは文字通り「作品が存在するという事実」を差し出すこと」に捧げられている。
  • ところで、ハイデガーは存在を開示する作品の中に、同時に「作品が存在するという衝撃」「不気味で途方もないもの」を見ている。柳に欠けているのは、まさにこの「不気味で途方もないもの」、つまり生成のアナーキーへの感性だろう。大地=物質の反乱の可能性であり、識域下に蠢くもの。プロレタリアートはそのようなものとして見出される。白樺派でそれを感受していたのは、有島武郎だけである。
  • 終り近くに、芸術作品の外的な「影響」の否定がある。「奇妙なことに、作品はどのような仕方であれ既存の存在するものに因果的な作用を関係によって影響を及ぼすことはないのである。作品の作用は影響ということには存しない。作品の作用は、作品から生起する、存在するものの不伏蔵性の変遷、換言すれば存在の変遷ということに存するのである」(p107)。この存在の変遷に関しては、しばらく後で、ギリシア、中世、近代のそれぞれで、「存在」の意味(理解?)がかわったとして簡単に触れられる。つまり、芸術の社会批判といった機能が否定されているのだろう。ここでも同時代の芸術が想起されているのではないか。