「民話」という言葉

どんな小さな図書館に行っても、「日本の民話」といった本は必ずある。シリーズであったりする。棚ひとつを占めていたりする。民話は、地方自治体が経営し、地域コミュニティの核になることを求められている図書館には欠かせないものだと考えられているということだ。それらの読者としては小学生から中学生が想定されているのだろう。日本の子供たちは、日本の民話を読む、それもたぶんまずは自分の地域の民話を読み、それから他県の民話を読むというのが、ごく自然で当然のふるまいとして設定されている。

「民話の会」1952年に木下順二、岡倉士朗、山本安英、松本新八郎、林基、吉沢和夫氏らが集まって、木下順二氏の民話劇『夕鶴』の上演を契機に発足。1958年10月から1960年9月の2年間、機関誌『民話』を小社(未来社)から発行していた(通巻24巻)。この機関誌の編集委員には民俗学者宮本常一も名を連ねている。この会と同時期にあった「民族芸術を創る会」の2つに所属した人々の運動によって「民話」という言葉が世の中に定着していった。
 具体的には、1950年頃から歴史学研究会民主主義科学者協会(民科)歴史支部会などを中心にして国民的歴史学運動(歴史学を国民のものにすると同時に、歴史学の体質改善を図ろうとする運動)が盛んになったが、この民科歴史支部会の思想史研究会が主催した木下順二氏らを囲む会がきっかけとなって、戦後の民話運動が起こり広まっていったとされる。戦後の解放と民主化の運動のなかで第一次民話ブームが起こり、さらに日本経済が高度成長を達成した1960年代後半には伝統的なものの再発見ということなどから第二次民話ブームが起こった。(「民話を語り継ぐということ 松谷みよ子氏インタビュー」内の註『未来』2006年8月号)

なるほど、とうなずきまくる記述。つまり、民話というカテゴリーは、国民的歴史学運動や国民文学論争などが生まれる風潮とひとつながりのものだった。戦後社会の中で、民科などの左派運動が果した役割は、現在予想できる以上に大きいと思う。そして、マルクス主義の魅力とは、よくいわれる包括的な世界観といったものだけではなく、名もなく小さなものを掘り出し、ナショナルな領域に組織するその能力になったのかもしれないと感じる。