2006-01-01から1年間の記事一覧

島木健作『生活の探求』(2)

駿介にとって、志村以上に手痛いのは、生活上の恩人であり、パターナリスティックな地主でもある上原の批判だろう。上原は、勉強をしたいという駿介のために色々と骨を折ってきた経緯があるにもかかわらず、学業をやめて農民として働きたちという駿介の希望…

ガンジー主義の可能性

femmeletsさんの日記で紹介されている、ダグラス・ラミス・鶴見俊輔の『グラウンド・ゼロからの出発?日本人にとってアメリカってなーに』(光文社)の一節。 ラミス この間、たまたまガンジーについての本を読んでいたんだけども、一九一九年、インドがまだ…

黒澤明『白痴』

なんといっていいものやらよくわからない。場外ホームランなのか、超弩級のファウルなのかも判断できない。ただ白球が宇宙空間にまで飛んで行ってしまい、自分がとりのこされたのは確かだ。やっぱドストエフスキーはでっかいなあ、というのと、いくら何でも…

島木健作『生活の探求』(1)

当然とっくに読んでいるべきだった『生活の探求』を、ようやく読み始めた。その感想を同時並行で書いてみる。もちろん、この作品は、いわずとしれたもっとも(悪)名高い「転向」小説だ。その主調線は、ほとんど冒頭の部分にはっきりとあらわれている。 彼は…

「未来」、タケリン、阿部知二

先日、日本から荷物が届いた。そのなかに、未来社の広報誌『未来』三月号が入っていた。確かeditorN氏もいつかの日記で書いていたはずだが、この雑誌は今とても充実していると思う。大宮勘一郎という人の連載「大学の余白/余白の大学」は難解でいつも読み通…

うたをうたう

ひょんなことから、妻が勤めている大学附属の語学学校で歌をうたうはめに。いや、授業の一環として。100人ほどの生徒を前に、「真夏の果実」を歌ってきた。かなり恥ずかしかった。ところで、たまに語学学校の授業に出ると、ずいぶん学生の顔つきが違うものだ…

NYU Teaching Assistantストライキと国際民主主義基金

デモはフランスだけで起きているわけではない。 昨年10月から、ニューヨーク大学(NewYork University,以下NYU)で、院生非常勤講師のストライキが続いている。アメリカでは多数の大学院生が、ティーチング・アシスタント(TA)やリサーチ・アシスタント(R…

黒澤明『我が青春に悔いなし』

いろんな意味でおもしろすぎる怪作という印象。タイトルとパッケージから軽い青春喜劇かと思ったらとんでもない。滝川事件(京大事件)を背景に、三十年代のファッショ化の流れに翻弄される女性の姿を描く。ヒロインの恋人のモデルは、まちがいなく尾崎秀実…

DVD買い出し

昨日は、機場路にある、最近できたらしいショッピングセンターへ。映像・音楽関連のソフトを扱うショップが集中している。一軒だけ、古い映画をかなりそろえている店を見つけ、主に黒澤明と溝口健二の作品をあさる。外国映画にもかなり食指をそそられるもの…

リンク追加

友人femmeletsさんのはてなダイアリーをリンクに追加しました。圧倒的な情報量。ヘンタイ的革命家femmeletsさんの視野の広さと行動力がわかります。 http://d.hatena.ne.jp/femmelets/

『純粋理性批判』3.2

「我々の一切の表象は、悟性によって実際になんらかの客観に関係せしめられる」。これはつまり、円錐形を直観するとき、私たちはつねにその色までも想像してしまうということだろう。数学においてはその色(具体的な直観像)は不必要なのだが、実際には数学…

『純粋理性批判』3.1

「何ひとといえども実在性という概念に対応する直観を、経験以外に求めることは不可能である、つまりア・プリオリに自分自身のうちから得るわけにはいかない、従ってまたかかる経験的意識よりも前に実在性を意識することはできない。我々は、経験をまったく…

増村保造、山内鉄也、山中貞雄

映画を三本。増村保造の『巨人と玩具』は、開高健原作の社会風刺劇。とにかく、当時(1958)の紋切り型の社会批評を一層通俗的にしたような台詞を、最初から最後まで俳優たちががなりまくる。というわけで、騒々しいのなんの。見終わったあとで、げっそりと疲…

購書目録(ただし未定)

ここ三週間ばかりのあいだに、やはり読まねば、と思うようになってきた本を備忘としてメモ。実は先月給料分をこえる額を本につぎこんでしまったので*1、今は控えているのだった。いかにもつまらなそうな本も入っているので、日本だったら図書館に走ればすむ…

純粋理性批判2

カントは「自由」の存在可能性を論じる部分で、「現象」には二種類の原因性(因果関係)が考えられなければならないという。ひとつは、感覚界において知覚される原因性であり、もうひとつは、それが「現象」である以上想定される「物自体」による原因である…

『西鶴一代女』

溝口健二の『西鶴一代女』。最初は江戸時代にしては、妙に近代人めいた人物たちの言動に、居心地の悪さを感じていたのだけど、途中からそんなことはどうでもよくなってしまう。とくに、田中絹代が生き別れた息子がのる駕篭に遭遇する*1場面から十五分程はた…

カント『純粋理性批判』

先週からぽつりぽつりとカントの『純粋理性批判』を読んでいる。何かの待ち時間に一ページだけといったペースなので、読了はおぼつかないが*1,それでもときどきはっとするような文章にあう。たとえば、カントは「経験の対象」(現象)は、経験においてのみ与…

越富探検記

前から聞いていた人民北路の越富(yuefu)広場へいってみる。ここにはDVDショップが軒を連ねていると聞いていたのだが、ついてみてびっくり。迷路のようなビルの中にちまちまとしたショップが並び、その半数がフィギュアの店。残りは日本製ゲーム、アイドル…

成瀬巳喜男と溝口健二

成瀬の『稲妻』と溝口の『雨月物語』を見る。『稲妻』は物語のあいまに挟み込まれる路地のカットがなんとも美しい。自分はつくづく成瀬が好きなのだと実感。やりきれない話なのだけど、暗く崩れた感じにはならず、ひとつひとつのシーンの透明な明るさ、端正…

見ることと語ること

とりあえず断片的な思いつきだけ。たぶん馬鹿なことを書くと思う。 私たちは、言葉が対象を「描写」するということに慣れてしまっている。しかし、「描写」とは何を意味するのか? むしろ、次のように述べた方が適切ではないのか。「もし、言表が対象を持つ…

思想界の淀川長治

尊敬する建築史家であるN先生のBLOGを読んでいたら、京都である高名な学者さんを囲むお茶会に出たという。現在84歳、「思想界の淀川長治」(N先生の表現)といえば、鶴見俊輔ではないのか? な、なんと贅沢な…。

を書くということ

これは言葉にしてしまえば、何をいまさらという程度の文学史的常識なのかもしれないと思うが、一応書いておく。平林たい子『砂漠の花』第一部を読んだ。たい子の文学的自叙伝である。そこで主人公の少女は、さまざまな経験をつみ、社会の諸相を「観察」する…

「方法論的総合」

平野謙は『近代文学評論体系7』の「総説」で、昭和五年を絶頂とする「いわゆる三派鼎立的状況」が、昭和七年から十年にかけてひとつのサイクルを終えた、と状況の分析をしている。もちろんそれは、プロレタリア文学の沈降のせいだ。平野は、福田清人が川端…

広州の車窓から

今日は、大学主宰の外国人教師向け日帰り旅行。広州市のはずれにある宝墨園という寺へ。寺院といっても、(中国風に)観光地化された庭園のようなもので、特に何ということもないのだけれど、それでもやはりバスの車窓から眺める路上の光景がなんとも興味深…

プロレタリア少女小説?

忙しくて三日更新を休んでしまった。ウイークデイは、授業、準備、その他とあわただしく、特に水、木は綱渡りで時間をやりくりしている感じになる。それでも少しずつ時間を盗んで、三一書房の『プロレタリア文学大系8』に収められている小説を読む。この巻…

樋口一葉『にごりえ』(昨日のつづき)

例えば、すが秀実は、言文一致という言語的な革命において目指されていたのは、作品の内容が読者の前にありありと現れるという意味での「現前性」であったのだと述べる。*1すがは、韻文ではそれが非意味的な情動(=ポエジー)として、散文では物語内容とし…

樋口一葉『にごりえ』

来週の授業のために、樋口一葉『にごりえ』を読む。一葉を手にとったのは十数年ぶりだろうと思う。二十歳前後のころ(たぶん)に読んで、「うーん、わかんない」と思ったきりだったのではないか。場所柄、日本文学のスタッフが充分おらず(というか、ネイテ…

なるほど、凄いことなのかもしれない

ざっと斜め読みしただけですが→http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50401721.html

[三十年代]「文芸復興期」前後 最近目に触れたものの中から、気になった文章を抜き書き。 思想や文芸学規範を放念して、おのづからにしておほらかな文章を書く必要がある。もはや神経衰弱と邪推を近代心理文学の方法と考へることは揚棄せねばならぬのである…

「中国人は基本的に政治闘争しかしない」?

ここの3月7日のエントリーをみて、なんだかな、と思う。別段ここで書かれていることの大筋に異論はない。ただし、「三農問題」(農業・農村・農民)は胡錦涛政権が最初から最重要課題として掲げていたもので、今度の全人代で新しく浮上してきたわけじゃない…